初めて美しいと感じた「のに」
冬本番の寒さがやってきましたね。大荒れの天気の地域もいらっしゃるかと思いますが、つつがなく過ごされているよう祈っています。
ゆたかリストになりたいエメごろうです。
この季節、湯船に浸かるのが至福のひとときです。お供には本を持ち込んで、ゆっくり時間を過ごすのが楽しみのひとつです。
今回、久しぶりに手にとったのは、辰巳芳子さんの「庭の時間」。今の季節の章である「一月 椿の真意」から読み始めてまもなく行きあたった文章に、はっとしました。
「お母様、椿のなにがそんなに好きなの?」
と絶えてたずねてみなかったことが悔やまれてなりません。
台所のテラスの真下に白の侘助と、西洋指抜きほどの金魚椿を植え、台所仕事の足下で侘助の城に遊ぶ、メジロやホオジロを楽しむ、良質の遊び心を持っておりましたのに。
人の好みは、暮らしを共にすると察せられ、慣れた心添えも出来てしまいます。ここに油断が生じ、わかっているつもりになるのでしょう。ですから、そのわけを折に触れ、言葉を介して知ろうとするのことは、より人間的なことでありましたのに。
あれは、あやまちの一つでございました。
ここで使われている「のに」という言葉。なんと美しいことでしょう。目が開かれる心持ちがして、人の心の美しさにじーんとしました。
実は、「のに」という言葉に対しては、あいだみつをさんの詩のイメージが強烈に焼き付いていたので、良いイメージを持っていなかったんです。
改めて二つの「のに」を比べてみると、違いがあることに気づきました。
辰巳さんの方は自分の行いに対して使っているのですが、あいださんの詩の方は他者のためにした行動に対する期待が満たされない時に出てくる言葉のようだということがわかりました。
はー、目から鱗です。
だれしもついつい思ってしまうけど、無意識だったとしても他者をコントロールしたくて使う言葉は美しくないんですね。言われてみれば当たり前かもしれません。
同じ言葉でも、自分も周りの方も心地よく感じる言葉を使っていきたいです。
とっても難しいことですが、心がけるだけでもきっと違う世界が見えてくるはず。少しずつ、少しずつ気づいて自分を育てていこう。
お付き合いいただき、ありがとうございました。